Ka Paradiso o ka Pakipika〜太平洋の楽園〜 'Apelila
- 2017.04.04 Tuesday
- 17:40
“Ka paradiso o ka Pakipika”とは、
2013年1月〜2014年3月まで「名古屋ハワイアンクラブ」(以下 NHC)の会報誌に寄稿していたレイアロハ和多田のエッセーです。
全15回、毎月休みなく掲載されていました。
日本語訳で「太平洋の楽園」とレイアロハ和多田がタイトルをつけたように、ハワイの素敵なお話を新聞記事のようなイメージで綴っています。
ちょっと前の話なので、すこーし話が???な場面もあるかもしれませんが、とてもお勉強になる話なので出来る限り原文のまま紹介していきたいと思います。
↓↓以下、レイアロハ和多田の「かわら版 4月号」はじまりはじまり〜♪↓↓
桜の季節になりましたが、お花見にはいかれましたか?
今月は、メリー・モナークでコンペを見に行かれるフラの皆さんにはお忙しい月ですね。
私は25年前の1988年にカマレイ・サタラカ先生の祝福を頂いてフラのスタジオを始めたのですが、 その年が今は亡き師 カマレイとミュージシャンのサムとウェンディと共に メリー・モナークを見に行った最後の年でした。
ヒロの町中なのに前を走る車がいなく、間違えて反対車線を走って警笛で注意されたり、ヒロのホテルの部屋で騒いで、隣の部屋に宿泊していた白人夫婦にクレイムされたのを覚えています。
確か今年は50周年記念ですから、大勢のハーラウがこぞって出るのでしょう。 ただし正確にいうと、もともとメリー・モナークは、フラ・クイーンを選んだり、 色々なエキジヴィションを楽しむフラのフェスティバルです。
始まった数年後にヒロに場所を移し、ドティ・トンプソンさんや、ジョージ・ナオペさんの肝いりで(今のようにフラのコンペティションとして)観光客を呼ぶ為に催されるようになったものだと聞いています。
スリーピー・タウンと呼ばれ、それまでは火山を見るための観光客こそ訪れていましたが、引退した人々の隠居所の町というのが一般のハワイの人々のヒロの町のイメージでした。
そのコンペの名前の由来になったカラーカウア王の時代の1888年1月に、王の肝いりで ホノルルでは初めての雑誌、
“Paradise of the Pacific” が発行されました。
昨年の終わりにこのコラムを書く事が決まり、蜷川さんよりタイトルを相談されて、長年の友人のアドヴァイスで、大変おこがましいのですが、125年前の雑誌にあやかった名前をハワイ語風につけさせていただきました。
ちょうどその頃(私のハワイ語の先生でもある)彼に勧められ、復刻版を読んでいた雑誌でした。
記事によると、当時のハワイの人々は新しい物好きで、皆が馬に乗り、馬と馬車の喧噪でホノルルは埃っぽくて、騒がしい町だったようです。
ー1888年ごろのホノルルは…
世界中で一番人口の割に馬の多い町だ、とアメリカから訪れたジャーナリストが書いています。 そして夜ごとの宴会が宮殿だけでなく、家庭の裏庭やらでも開かれ、人々に音楽が生きた娯楽として 愛されていた時代でした。
それまで、宣教師により禁止されていたフラも復活しました。
2月号でも紹介したハワイ語の新聞に、『カラーカウア王の生誕50周年を祝う行事の為、日の出から日の入りまで,若者達がフラの練習をしているのは「勉学のさまたげになるばかりでけしからん。」』といった記事が読者の白人から寄せられています。
確かにハワイの文化であるフラを守り継承するためには,大切な事であった事も、変化する時代の大きなうねりの中で、西洋の学問を修得する教育が同じように大切だった事も否めません。
レイアロハ 和多田